悩める東大生の休学タビ記録

人生に悩んだ東大生が、休学して世界中を旅した経験を綴ったエッセイブログ。

休学を終え日常に帰ったぼくが、今想うこと。

休学が終わって、早3ヶ月が経とうとしています。

 

 

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休学が終わって、早3ヶ月が経とうとしています。

 

旅中に毎日書いていた日記をもとに、いつもこのブログでエッセイを書いています。

意外にも執筆するのに時間がかかり、このペースだとあと数カ月は完結しないので、ここで一旦、休学が終わって少しした僕の心情を、まだそれがフレッシュなうちに吐露しておきたいと思います。

(いつもお読みになってくださっている皆様、本当にありがとうございます)

 

休学を終えた僕に残ったものは一体何か。

それは、旅先での壮大な景色。

それは、海外での何気ない生活景。

それは、人々と交わした言葉の数々。

 

そんな何もかもが、今も僕の心の片隅に存在しています。

そんな何もかもが、今も僕の意志を支えてくれています。

この瞬間誰かに馬鹿にされても、世界のあちこちに僕のことを後押ししてくれる景色や人があることを知っているから。

この瞬間帰る場所がなくても、この世界のどこかにはちゃんと僕の居場所が存在していることを知っているから。

 

そして今、僕がその下支えの上で本気で思うのは、「人の役に立ちたい」ということ。

先日そんな話をしていて、「それって偽善じゃないの?」という言葉を投げかけられました。

僕は、僕が世界中の大地から、空から、そして人からもらってきた優しさの数々を次の誰かに返したい。

そこには偽善やかっこつけの気持ちなんかなくて、ただただそこには、社会や世界といった僕を包み込んでいる漠然とした環境に対する感謝の気持ちがあるだけなのです。

「人の役に立ちたい」という言葉が偽善に聞こえる人々も、いつかそれが偽善じゃないと思えるように、僕は僕の手の届く範囲で(それはもしかしたら本当に身近な人だけになるかもしれません)、僕のできるやり方で、僕が受け取ってきた優しさのバトンを渡していきたい。

そう心から思うようになりました。

 

それから、少し飛躍して聞こえるかもしれませんが、そのためにはまず「生き」なければいけないと思うようになりました。

「みんなちゃんと生きているよ」その通りかもしれません。

僕はそこに、誰にでも適用できる客観的な線引きをするつもりはありませんし、そんなことは傲慢で不可能だろうと思います。

でも、僕の中には、僕に対する明確な線引きがあります。

「自分の心と本当にちゃんと向き合えているか。」

これは程度問題なのかもしれませんが、その「程度」を具体的に定義するつもりもないし、自分さえわかるならば定義する必要もないかなと思います。

とにかく、その先の人生が、僕にとっての「生きている」人生です。

そして、「生きる」ことでしか、本当の優しさは生み出せないように感じています。

なぜなら、自分の心に向き合えない人の悩みも辛さも楽さも、自分の心に向き合おうとする人につきまとう障害も幸福も、「生きて」いなければ、わからないだろうと思うからです。

自分の心に向き合った結果、自分の人生の道筋に対してどういう判断を下すかについてはあまり気にしていません。

元と同じ人生を選ぶか、新しい人生を踏み出すかは、その優しさを獲得するにあたってはどちらでも良いことだと思っています。

 

 

今僕は、休学を終え、大学院に戻り、そして学部生の時に旅を始める間接的なきっかけとなった就職活動を今度は院生の立場で再び経験しています。

いろんな業界や仕事について調べている中で、なんでこの仕事こんなに給料高い・安いんだろうとか、なんでこの業界こんな労働環境なんだろうとか、なんでみんな同じような髪型と服装をしなきゃいけないんだろう、などと思うことが相変わらず度々あります。

それはつまり、僕の中の価値判断基準と、社会の(主に経済的な)価値判断基準がずれている箇所が少なからずあるということだと思います。

その両極の間で揺れ動く自分の想いを、最終的にどこに落ち着かせるのか。

結局2年半前の就活と考えていることは同じかもしれないけれど、でもその振れ幅をしっかりと認識し、両極を意識しながらもそのどちらかに傾倒しすぎることなく、悩むことそれ自体に意義を見出せるようになった自分は、やはり休学を通して成長したと言っていいのではないかなと、自分では思っています。