「ピンチ!復学届!」サンティアゴ・デ・クーバ|中南米旅エッセイ12
もし、カード会社から電話がかかってきていなかったら、Wi-Fiにつなぐこともなく、催促のメールには気づかなかった。もし、そのタイミングで知り合いに会わなかったらパソコンを借りられなくて復学届は書けなかった。さまざまな偶然の連携で、見事にピンチを乗り切った。
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1. 片道チケット
朝7:30にトリニダーを出て、一度サンクティ・スピリタスでバスを乗り換えた。キューバにおいてハバナの次に大きい都市「サンティアゴ・デ・クーバ」に着いたのは、夜の21:30だった。バスの中で、ダウンロードしておいた映画「ウォールフラワー」を見て、サンテグジュペリの「人間の土地」を読んだ。ハバナとサンティアゴ・デ・クーバはそれぞれキューバのほぼ西端と東端に位置するので、その間を結ぶ道路は国にとって重要な幹線なのではないかと思うのだが、途中道が舗装されていない箇所すらあって驚いた。
夜の21:30でも、カサの客引きは集まっていた。逮捕された芸能人の出所を待つ報道陣みたいに、団子状にかたまって押し寄せてきた。何人かの客引きに1晩15cucだと言われたが、頑張って10cucで頷いてくれるおっちゃんを探した。英語は全く通じなかったが、この頃になると僕は宿の交渉くらいのスペイン語会話はできるようになっていた。
客引きの彼らは、そのままカサのオーナーだったようで、僕が頼んだおっちゃんは僕を連れて、夜の町を歩き始めた。15分くらい歩いたように思う。途中坂も登り、中心からは離れていった。なるほど他より5cuc安いわけだった。でも、部屋は綺麗だし家も広かった。なにより、家で待っていた奥さんと息子(同い年くらいだと思う)が優しくてとてもアットホームだった。
翌朝、おっちゃんは7:30に朝食を出してくれた。パパイヤとパパイヤジュースだった。まずはバスターミナルまで歩いて戻り、次なる町バラコアまでのバスチケットを買う。二日後出発だ。できれば、バラコアからハバナまで帰るバスのチケットも抑えたかったが、買えなかった。ハバナから出国する航空券は買ってしまっているので、期日までに必ずハバナまで戻らなければいけないのだが、バラコアからハバナまで本当に帰れるのかはまだわからなかった。バスターミナルではなく、町の観光代理店によると、明日ならバラコアからハバナまでのバスチケットが買えるということだった。今日は日曜日だから買えないらしい。
2. うまく捉えられない町
サンティアゴ・デ・クーバは、坂と階段が多い町だった。一方で、なぜかうまく捉えられない町だった。少年が道端で凧揚げをしていた。道中で現地の人に「こんにちは」と日本語で話しかけれられた。大学生風の青年で、僕より2周りは大きい。黄色いヘッドホンをしていて、英語も綺麗にしゃべれた。聞くところによると、NARUTOが好きで、見ているうちに日本語を少し覚えたのだという。
日曜日だったから、両替所もしまっていた。目抜き通りでたむろしている怪しい青年たちに5cucをモネダ(cup, ペソ)に両替してもらった。あまりに雰囲気が怪しかったので、何か騙されているんじゃないかと思ったが、そんなことはなかった。
「7月26日モンカダ兵営博物館」に行った。ここは、カストロたちがキューバ革命を起こすために一番最初に襲撃した兵営である。例に漏れず日曜日のため空いていなかったが、黄色の外壁には生々しい銃痕があった。キューバにいる間、僕は武力革命について考えていた。単なる是非とかではなくて、その時の革命軍の気持ち。国民の気持ち。そういうものが知りたかった。
*
カサに帰ると、隣の部屋にイタリア人の旅人が泊まっていた。カサの主は、「君と彼と俺とで、オリエンテ・オシエンテ・カリビアンの男の制覇だ」と言って上機嫌だった。
少し眠ってから、夜に「Casa de la Trova」というライブの演奏が聞ける場所へ行った。入場5cuc、ワンドリンクのモヒート2.5cuc。建物内にはちらほら日本人観光客がいて気まずかった。奏でられる南国の音楽は、なぜか僕には響いてこなかった。演奏を前の方で聞いていたお姉さんが、立ち上がってダンスをし始めた。活き活きしていてとても可愛かった。
3. アジア人差別?
翌日、町の旅行代理店に再び行くも、結局バラコアからハバナまでのチケットは買えなかった。担当者によって、言うことがまちまちで適当だった。
とあるカフェに行くと、店員に"シッシッ"と追い払われた。サンティアゴでは、若干アジア人差別を感じた。街中では、頻繁に「チーノ」(中国人の意)と揶揄われる。慣れてくると、その中にも悪意のあるものとないものが存在することがわかってくるが、いずれあまり気分のいいものではない。特に疲れている時は対処が面倒だ。ただ、「ジャパン」と言われると、「お、日本人ってわかるんだ」と思い嬉しく感じたりもする。
7月26日モンカダ兵営博物館は、今日も閉まっていた。その前庭では少年たちがサッカーをしていた。そういえば、キューバって野球じゃなかったっけ?と思ったが、野球場はあまり見なかった気がする。
イザベリカというカフェの前にある公園で、2人の現地人に声をかけられ、一緒にカフェに入った。案の定奢らされたものの、一杯1cupだったので、まあいいかと思った。ちょっと長話に捕まりそうだったので、サンタ・エフィヘニア墓地に行くと言って抜け出した。
4. 革命と泣き声
サンタ・エフィヘニア墓地には、キューバの著名人も埋葬されている。その代表格は、キューバ革命のトップ、フィデル・カストロだ。16:00少し前に着いた。ちょうどきりのいい時間だったので、衛兵の交代式が行われていた。カストロの墓はとても質素だった。縦横3m弱くらいの丸みを帯びた石の真ん中にFIDELという名前のプレートが置かれているだけだった。またキューバ革命に想いを馳せた。これだけ質素な墓を望む指導者は、どんな思いで武力革命に出たのだろうか。でも武力による革命は、次の武力革命も否定できないだろう。目的と手段では、時と場合によって優先順位がひっくり返る。なんだってそうかもしれないけれど。
カストロの墓は、墓地の端っこにあったから見つけるのは簡単だったが、他の人の墓を見つけるのは一苦労だった。ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのコンパイ・セグンドの墓を探す途中で、今まさに埋葬をしている集団に出会った。夕暮れの墓地に、中年女性の泣き叫ぶ声が響いていた。当たり前だ、ここは墓なのだ。本来観光地ではない。
5. ピンチ!復学届!
夜になって、再びLa Trovaで演奏を聴いた。店を出ると、誰かから電話がかかってきた。と、同時に「よっ!」と声をかけられた。ハバナで一緒にコヒマルに行った旅人のお兄さんだった。
まずは電話を処理しようと、Wi-Fiの飛んでいる公園まで行った。普通に電話をかけると莫大な料金になってしまうので、LINE outというLINEから通常の電話番号に電話をかけられるサービスを利用して折り返し電話すると、クレジットカード会社からだった。カードの利用が海外からだったので、不正利用防止のための確認の電話だという。
それ自体は、大したトラブルではなかったが、ここで大したトラブルが起きる。Wi-Fiに繋いでいたことによって、メールが届く。大学の研究室からで、内容はまさかの復学届の催促だった。僕は、事前に復学届を出さなければいけないことを知らなかった。でもここはキューバだ。地球の反対側で、しかもまともにインターネットを使えない。でもどうやら今日中に出さねばいけないらしかった。時差を考えると、今すぐ処理しないとまずかった。
先ほどあった旅人のお兄さんが、たまたまパソコンを持っているらしく、わざわざ宿までとりに返ってもらい、貸してもらった。僕はキューバの夜中の公園で、他人に借りたパソコンを使って、復学届けを書き始めた。学籍番号を記入する必要があったが、大学院に進学してすぐに休学したので、自分の学籍番号を知らない。実家に電話したら、弟が出た。弟に頼んで、自分の机の引き出しから書類を出してもらい、自分の学籍番号を教えてもらった。日本は昼、キューバは夜。なんとか復学届けを書いた。
もし、カード会社から電話がかかってきていなかったら、Wi-Fiにつなぐこともなく、催促のメールには気づかなかった。もし、そのタイミングで知り合いに合わなかったらパソコンを借りれなくて復学届は書けなかった。さまざまな偶然の連携で、見事にピンチを乗り切った。お兄さんにはラムコークを奢った。
〈あとがき〉
非常にパーソナルな当時のコイバナ(?)をします。僕のエゴだとはわかっているけれど、書いておくべきだとも思うからです。思い当たる本人以外はあんまり読んで欲しくないのが正直なところですが。
復学届けを出せたのは、本当にミラクルが3重に重なったおかげです(割愛しましたが、研究室の先生方も相当味方になってくださり、その協力無しでも絶対無理でした。本当に頭が上がりません)。このブログの元ネタになっている日記には、その出来事に言及した後、続けてこう書いてあります。
「完全に奇跡。思えばメキシコでの盗難が未遂で済んだのも奇跡だし、お守りのおかげ…?〇〇の祈りのおかげ…?」
〇〇というのは、当時よく僕と遊んでくれていた社会人の女性です。彼女は、日本と海外を行ったり来たりしている僕が日本に帰ってきている間、ご飯や遊びに付き合ってくれたばかりか、僕が中南米に行くと知ると、僕に旅行安全のお守りを買ってくれて、安全を祈ってるから無事に帰ってきてねと、本当に心配そうに言ってくれました。当時はあまり意識していなかったけれど、2年経って振り返ってみると、孤独に自分と向き合っていた当時の僕にとって、彼女の存在は心の支えになっていたような気がします。
僕は彼女の好意に薄々気づいていながらも、応えることはできなかった。それは本当に酷いことをしたと思う。だから、途絶えた連絡を回復はさせたくないけれど、もし万が一、彼女がこれを読んだ時のために言っておきたい。当時は本当にありがとう。