悩める東大生の休学タビ記録

人生に悩んだ東大生が、休学して世界中を旅した経験を綴ったエッセイブログ。

「正しさが暴走するとき」ハバナ②|中南米旅エッセイ10

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正しさが暴走するとき。正義の名の下に、あるいは経済的合理性の名の下に、本当は正しくない何かが正しいとされてしまったとき。社会は真っ暗闇の中、ブレーキをかけることなど考えもせず、崖へと続く道をアクセル全開で進む。次に社会が止まるのは、崖から落ちたあとだ。

 

 

 

〈前回のあらすじ〉

メキシコからキューバに飛んだ。まずは首都ハバナで、民泊。ハバナからほど近いところにある、ヘミングウェイ老人と海」の舞台となったコヒマルを散策しに行った。

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1. 正しさが暴走するとき

 

大雨だったので、一緒に行った旅人と相談して、コヒマルからハバナまではタクシーで帰ろうということになった。

 

しかし小さなコヒマルで、タクシーは捕まらなかった。結局、通りかかった普通のおじさんがタクシー役を買って出てくれることになり、宿まで送ってくれた。15cucだった。

 

 

宿に帰ると、雨に疲れ果て、外へ出る気はおきなくなった。それは同じ宿に泊まっていた他の人たちも同じだった。僕と、年上のお兄さん2人と、初日に僕と一緒に宿まできた女の子1人の計4人で話に花を咲かせた。旅人あるあるの話から、ドミトリー暮らしで困ること、という話題に移った。誰かが、同じドミトリー部屋内でカップルが夜のスポーツを始めるのだけは勘弁して欲しい、と言った。その話題が始まった結果、一緒に話していた女の子は、会話から離れてどこかへ行ってしまった。しかし僕の気持ちを正直にいうと、本当にあれはやめてほしい。寝てるフリをするしかない気まずさ。そして行き場を断たれた興奮。

そうこうしていると、別のお兄さんが宿に帰ってきた。「さっき外で〇〇しているカップルがいてさ!つい動画とっちゃったよ」というお兄さん。僕ら三人はその話の流れに、顔を見合わせて爆笑した。

 

僕ら男4人と、帰ってきた彼女を含めた5人で、外に夕食を買いに出た。雨は上がっていた。チキン3ピース、ひとり3缶のビール。最後にピザ屋でピザを買った。そこは立ち食いでピザが食べられる場所だったが、テイクアウトしたいというと、店のおばちゃんは大胆にもピザを二つに折り曲げて袋に入れてくれた。

 

宿に帰って、ご飯を食べながら世間話を再開した。ビールが入ると、話題は真面目な方向に向かう。この世には、酔うと猥談を始めるタイプと、酔うと真面目な話を始めるタイプがいる。我々はどうやら後者らしかった。

あるお兄さんが、会社の上司の愚痴を言うように、酩酊の力を借りて、勢い吐き出すように言った。

「時々、旅人に対して、おかしいと思うことがあるんだよ。アウシュビッツに行って、しみじみして、なんてむごいんだ!って言ってる奴がさ、東南アジアに行くと、どこどこの国の女は安い、とか言ってんのおかしくないか?。武力で植民地にするのと、経済で植民地にするのと何が違う!」

 

 

しばらくすると、宿に新しい客がやってきた。20代後半くらいの日本人のお姉さん2人だった。2人ともゲバラのTシャツをきていた。ひとりはその上からエプロンをきていて、もう1人はゲバラみたいなベレー帽をかぶっていた。見た目的にはめちゃめちゃチャラそうだった。しかし話してみると、普通に優しい良い人で、僕はそのギャップに少しクラっときていたことを白状せねばなるまい。

 

結局彼女たちは、僕らと一緒に話ていた女の子と、他の宿の住人と一緒に、夜のクラブへ繰り出していった。

残った僕含め男子4人組は、話を進めた。

誰かが「旅先で日本人で固まって、遊びに行くのって何が良いんだろうな」と言った。クラブに行くという明るいノリについていけない自分たちへのやるせなさから出た言葉でもあった。

少し間をあけて、他の誰かが「まあ、僕らも日本人で固まってこうして話してるわけですけどね」と言った。誰もが笑った。

 

 

正しさが暴走するとき。正義の名の下に、あるいは経済的合理性の名の下に、本当は正しくない何かが正しいとされてしまったとき。社会は真っ暗闇の中、ブレーキをかけることなど考えもせず、崖へと続く道をアクセル全開で進む。次に社会が止まるのは、崖から落ちたあとだ。

当然、経済水準が低い国だからといって、先進国の経済的植民地と言ってしまうのはいささか言い過ぎだと思う。もちろん、本来職業に貴賎などない。でもきっと、僕らの生活を包む巨大なシステムは、いつの間にか僕らの視界を狭めている。正しさを言い訳に、誰も責任を取らなくなる。大切なのは、正しいことではないんじゃないか。本当に大切なのは、自分一人分の体重で、それ以上でもそれ以下でもないただそれだけの重さで何かを断定し、同時に断定したことに対する責任を引き受けることなのではないか。

 

僕らは、誰もが当事者だ。批判する側であると同時に、批判される側でもある。それに気づいた時、自己矛盾を解決するために、正しさの判断をシステムに託してしまってはいけない。

過ちを認めること、矛盾とともに生きていくこと。

 

 

2. あとがき

会話の具体的な内容に関しては、僕が日記にメモをしたものを元に、セリフはほとんど僕が創作しました。正確な事実ではないかもしれませんが、あの時あの場所でなされた会話は、僕にこうした影響を及ぼしたことだけは確かです。