「ヘミングウェイの憂鬱」ハバナ|中南米旅エッセイ9
「老人と海」は僕はあまり好きではない。それよりも「日はまた昇る」とか「武器よさらば」の方が好きだ。でもそこには共通した感覚がある。僕がヘミングウェイの小説を読んだ後に想うのは、いつも一人の人間の後ろ姿だ。
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1. 飛行機の中で拍手
機内に拍手の音が響く。
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その日の朝カンクンには雨が降っていた。年間で360日晴れていると噂で聞いた気がするが、容赦なく空のご機嫌は悪い。
宿でコピー機を借りて、ネットで買ったカンクン発ハバナ(キューバ)行の航空券と、ハバナ発リマ(ペルー)行きの航空券を印刷しておいた。
あとさき考えない旅スタイルなのに、なぜ出国の航空券もこの時点で買ってしまったかというと、一つには帰りの航空券を持っていないとキューバには入れてもらえないという話を聞いていたからだ。
もう一つ懸念点があった。キューバではネットが自由に使えない。国民ですら自由に使えないようだ。ネットを使いたければ、通信キャリアのショップへ行って、公衆Wi-Fiのパスワードが書かれたチケットを買う必要がある(1時間1cucほど。キューバのお金事情はあとで説明する)。公衆Wi-Fiは高級ホテルなどの他、主に公園などに飛んでいるため、昼夜問わず公園には携帯をいじる人の集いができる。
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カンクンの空港で、キューバの入国に必要なツーリストカードを20ドル払って買い、イミグレオフィスでスタンプを押してもらい、ようやくチェックインができる。13:05発だということだが、チェックインの時点ですでに13:05を過ぎている。雨のせいで飛行機が遅れているのだろうか。
チェックインの列に並んでいるとき、隣にいたメキシコ人のおじさんが話しかけてきた。綺麗な英語を話していた。
「うちの娘はネットで漫画を売っているんだよ!しかもAT&T(アメリカの大手通信キャリア)に勤めているんだ!」と嬉しそうに自慢していた。
娘を自慢する父親を微笑ましく思い、また一方では、自分の子供がアメリカの大手企業に勤めていることを自慢することそれ自体が、なんだかメキシコの現在を象徴しているような気がした。
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そして機内である。座席は狭く、僕は隣のふくよかな女性に圧迫されていた。
2度ほどジェットコースターのように一瞬の急降下がおこり、股がひやっとした。というか身の危険を感じた。機内からは女性の悲鳴もあがった。
そんなわけで、ハバナ空港に着いたとき、機内から拍手が起こったのだ。怖いものだ。
2. 1国2通貨
「1回生かと思ってました…。」
ハバナの空港に着いて、僕は22歳の日本人の女の子2人と会った。一人は学級委員みたいな少し真面目な雰囲気で、もう一人はダンス部にいそうな明るい感じだった。
当時僕は23歳だから、一つ年上なのだが、僕が自分の歳を言うと、冒頭のセリフを言われた。アジア系以外の人にはよく若く見られるが、日本人の大学生に大学1年生と間違われるとはなかなかだ。
彼女たち二人は市の中心までタクシーのシェアをしないかということで話しかけてくれたのだが、いつも通りタクシー代を節約したい僕は「ローカルバスで行くからごめんなさい」と断った。
…のだが、すると彼女たちも一緒にバスで行くという。
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キューバの通貨事情は特殊だ。なぜなら、通貨が2種類あるからだ。cucとcup(ペソともいう)だ。誤解を恐れず簡単にいうならば、前者が観光客用の通貨で後者が国民用の通貨だ。
例えば観光客向けのレストランなどでは主な支払いはcucだし、住民向けの食堂の主な支払いはcupで行われる。ただし、明確に使用者が分かれているわけではなく、大体次のようなレートで交換できる。
米1ドル=1cuc=24~25cup
交換できるからあまり意味はないような気もするのだが、cupで支払える店や公共交通機関の物価は恐ろしく安い。例えば、アイスクリームは1cupでハンバーガーは8cupだったりする。1cupは上述の計算式に従えば約0.04米ドルであり、日本円にして5円程度だ。
さてそんなわけで、バスも現地プライスである。本来空港の両替では観光客用のcucしか手にいれることはできないが、僕はカンクンの宿で旅人にcupのコインを何枚か譲ってもらっていたので、ローカルバスに乗ることができる。タクシーを使うより何十倍も得だ。
結果的にバスはとても混んでおり、タクシーシェアをする予定だった彼女たち二人には少し悪いことをした気になった。
3. ティガーの鍵
キューバが特殊なのはWi-Fiと通貨だけではない。配給制度があったり、都市間のバスが基本的に国営の数本しかなかったりする(これと僕の向こう見ずな態度のせいで後々痛い目をみるがその話はまた今度)。
そしてもう一つ、キューバには「宿がない」。
正確には高級なホテルはある。通常の観光客はこちらを使う。しかし僕らは旅人だ。そんなところに泊まっていては破産してしまう。ではどうするか。キューバでは、国に許可された一般家庭が客に部屋を貸すことができる。要は民泊だ。そうした家は「カサ(Casa、スペイン語で家という意味)」と呼ばれ、漢字の「工」のような形をした青いシンボルが描かれた看板がかかっている。
ハバナには、日本人がよく泊まるカサというのがあって、僕らはそのうちの一つシオマラ家にお世話になろうとしていた。
空港からのバスを途中で一度乗り換え、そしてキューバの国会議事堂カピトリオの近くで降りる。道にはクラシックカーが行き交っている。メキシコではビートルをよく見たが、キューバは社会主義国でアメリカとあまり仲がよくなかったこともあり、古い車をずっと使っているようだ。
しかしここ数年で貿易事情は変わったようで、クラシックカーは全て観光客用のタクシーだという説もある。実際に行ってみた肌感では、キューバ全体では「全てタクシー」というのはやや誇張なのではないかと思った。
五分くらい歩く。旧市街は若干東南アジアを感じる街並みで、路地の両側には3〜4階建ての建物がそびえるが、薄汚れていて退廃的な見た目である。シオマラ家もそんな3階建ての建物の3階にある。
1階でピンポンをおす。しばらくすると、3階のベランダから、何かが落ちてくる。ティガーのぬいぐるみだ。ティガーのぬいぐるみを付けられた扉の鍵だった。入ってあがってこいということだ。
3階に上がるとそこはもうリビングになっていて、若いお姉さんが迎えてくれた。この人がシオマラさんか?と思ったが、どうやらアルバイトみたいだった。
宿代は一泊10cuc。中南米の相場的にはとても高いが、国の許可制なので幾分仕方ない。
あいにくなことに、ベッドは2つしか空いておらず、僕は女の子二人にベッドを譲り、自分はリビングのソファで寝かせてもらう事になった。その代わり5cucで泊めてくれた。
4. ヘミングウェイの憂鬱
なんと、カンクンの宿で僕を出迎えてくれたお兄さんが同じシオマラ家に泊まっていた。翌日僕らは二人でコヒマルというハバナ中心から6kmほど離れた港街に行くことにした。
翌朝は一人でメインどころを観光し、昼すぎに宿に帰って、宿で働いていた掃除のおばちゃんにコヒマルの行き方を聞いた。ガイドブック等には書いてなかったのだ。英語は喋れなかったので、身振りてぶりとカタコトのスペイン語が頼りになった。
コヒマルへの行き方をめちゃくちゃ親切に教えてくれたおばちゃんは、僕ら二人にあろうことかバス代のcupを好意でくれた。cupを手に入れるのはなかなか難しいのだ。
僕らはP8番のバスに乗ってコヒマルを目指した。なぜガイドブックに行き方も書いていない(というかタクシーで行けと書いてある)ような街を目指したかというと、コヒマルは、ヘミングウェイがノーベル文学賞を受賞した「老人と海」の舞台になっている町だからだ。
ヘミングウェイはかつてハバナにも長く住んでいて、家は博物館として公開されており、ハバナにもコヒマルにも行きつけのバーが今でもある。
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コヒマルに着くと、まさかの大雨だった。僕らは海沿いにあるヘミングウェイ行きつけのバー「La Terazza」に入るも、ヘミングウェイの定席の床は大雨により浸水していた。適当に席にかけて僕はクバーナというラムコークを頼んだ。キューバはラムが有名だ。
「老人と海」は僕はあまり好きではない。それよりも「日はまた昇る」とか「武器よさらば」の方が好きだ。でもそこには共通した感覚がある。僕がヘミングウェイの小説を読んだ後に想うのは、いつも一人の人間の後ろ姿だ。
必死に追い求めても決して手に入らない異性の心や、運命の悪戯による哀しみや、人生をかけた努力を一瞬でふいにしてしまう構造的な理不尽なんかが、登場人物を打ちひしぐ。セカイの壁が威圧するように立ちはだかる。
そういう観点では「老人と海」は若干救いがあるようにも感じるが、僕はなんとなく好きじゃない。単純に小説として好きではないのか、あるいは、その救いが嘘のように思えてしまうくらいには僕は僕にとっての壁を克服できていないのか。
結局ヘミングウェイは、散弾銃での自殺で生涯を閉じる。もちろん、そんな過激な人生を送るつもりは僕にはないが、でも彼の本を読んでいると、同じ壁を共有している気分になる。まるで、セカイの壁を哀しげに見つめるヘミングウェイの澄んだ瞳が、自分のすぐ目の前にあるように思われる。
外では小さな港町の地面を、雨が強く叩いていた。
補足
キューバはウユニ塩湖と並んで、今回の旅でどうしても行きたい場所でした。なぜなら、旅人の間で「それらの場所はあと数年したらガラッと変わってしまうだろう。今のキューバやウユニはもう経験できなくなるだろう」と噂されているからです。
キューバが変わってしまうと言われる理由は、他国との関係が改善されはじめ、車の輸入等が進むことで、キューバ独特の風景が変わってしまうのではということです。
でも僕はもう一つ要因があるのではないかと思います。(あんまりファクトチェックしてないので、話半分で読んでください)
キューバはどうやら資本主義を少しずつ受け入れているという話があります。今までキューバの最高指導者はキューバ革命の指導者であったカストロとその弟でしたが、今の3代目はカストロ兄弟ではありません。そういうこともあってかどうか正確なところは分かりませんが、社会主義に少しずつ資本主義を取り入れているというのです。
例えば社会主義なので、基本的に国民はみんな公務員扱いで、月給は20-30cuc(2000-3000円相当)だと聞きました。配給制度もまだありますし(配給所みたいなのがあってそこに手帳を持っていくようです。一度見学しに行きました)、cupで支払える食堂の物価は、すでに書いたようにとても安くなっているので、生活が回るわけです。
しかし一方で宿の代金は1泊10cucとかです。タクシーの値段も格安ですが、それでも少し走れば7,8cucくらいはします。そうすると、観光客向けのビジネスが許されている人は少しずつ潤っていき、そこに貧富の差が生じ始めるわけです。
このヒビ割れは、これからひたすら広がっていくのではないか(もしそうなったら…)、というのが僕の「勝手な」見立てです。(ファクトチェックはした方がいいですね)
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