【インド編⑥】カジュラホ
もうあたりは暗くなっている。
その時、道の先からこちらにトラックが一台向かってきた。
荷台には20から30代の男が10人ほど乗っている。
僕は立ち上がった。
まずい、殺される。
ここで襲われたら気づいてくれる人は誰もいない。
≪前回のあらすじ≫
思い切って予定を変更し、バラナシからサトナを経由してカジュラホに向かう僕。
電車を降り過ごしそうになるも、なんとかカジュラホまでたどりついた。
1.ババ(仮)との出会い
カジュラホという町には実は空港がある。
しかし一方で非常に小さい町でもあり、世界遺産の寺院群をネタに観光産業が少し発達している程度である。
本当かどうか、今調べたら人口は4500人ほどらしい。
寺院は主に西群と東群に分かれている。
西群のものがもっとも規模が大きく、密度が濃い。そして町の中心部に立地する。
一方で東群は、実質〈西群以外〉といった感じで、町から1,2kmほど離れたところに点々としており周囲には平原が広がる。
僕はその東群の寺院を見に行こうと歩いていた。
“Where are you going?”
と、バイクに乗った男が話しかけてきた。
彼の名はババ(仮)。色黒で、背丈は160センチ前半ほど、髪は整髪料でキレイにまとめていて、サングラスを額にかけている。
適当に流していたが、彼は自分がこのあたりの学校で英語の教師をしていて、町中の人間が自分のことを知っているから怪しい人間ではないという。
今日は休みで暇だし、ビールを1缶買ってくれたらバイクに二人乗りで東群の寺院を回ってくれるという。
東群の寺院は結構距離が離れていたし悪くないな、と思った。
無料で連れてってやるよ、と言われるよりもビール1缶買ってくれたら、と言われる方がむしろ動機が明確で安心する。
そして何より、彼の言葉通り、通りすがりの交番で警官に彼のことを聞くと、警官は本当に彼のことを知っていて、
“He is a good person”
と言ったことが、僕の警戒心を少し解いた。
もし僕に何かあったら、この警官は僕がこいつといることを知っている。
2.バイクに乗って、遠くへ
東群の寺院をあらかた見終わった僕に彼はこう言った。
この平原の先に俺のお気に入りの山があるんだがガソリン代をちょっと払ってくれたら連れてってやるけど、どうするか、と。
僕は結局連れて言ってもらうことにした。
今となってはそれがどこだったのかはわからないが、カジュラホの町から東へ10kmくらいは離れていたと思う。
バイクは平原をひたすら走る。
平原の中にはおそらく農作業をして生活しているのだと思われる家がポツポツ見られた。
時々道無き道を走り、浅い川は直接渡ってしまう。水牛が水浴びをしていた。
左手に山が見えた。山というより岩でできた丘、と言った方が正確かもしれない。
外から見たときは、あれに登ることなんてできるのかと思ったが、登ってみるとなんのことはない、ものの5分で登れてしまう。
眼前には水牛が水浴びしている川が流れ、一面には平原が広がり、背の低い木々と、数軒からなる村が点々としているのが見渡せる。
一言で言えば絶景だった。
日本は自然豊かであるが、豊かすぎるゆえに、こんなどこまでも続くような真っ平らな平原は見られないだろうな、と思った。
バイクで宿へ送ってもらう途中、夕暮れ時にまたくれば夕日が見られるし、夜は星が綺麗だとババは言った。
3.夕暮れに平原の小さな村で
僕は宿でどうするか迷っていた。
電気などない平野だ。夕日も星空も綺麗に違いない。しかしそれは同時に、真っ暗闇の平原へ知らない人に連れていかれるということも意味する。
宿の同室のイギリス人の女の子と、ブラジル人のITエンジニアにその話をした。
すると女の子はこう言った。
「えー!羨ましい!」、と。
そう言われると、そういう機会を得た自分がラッキーだというような気がしてきて、よし行こうと思った。
日が傾きかけた頃、ババは再び宿の前に現れ、僕らは先ほどの山へ再び夕日を見に行くことにした。
夕日は広大な平原に赤々と沈んで行った。
完全に暗くなる前に僕らは山を降りた。
ババはこう言った。
星が見えるようになるまで、ちょっと近くの村に行って座って待とう、と。
僕はバイクに乗せられ、5分ほど離れた村に連れていかれた。
村と言っても、平原の中に家が20軒ほど集まっているようなところで、家は全てレンガででき、道は舗装されていないから土だ。
僕らが家の基礎のようなところに腰を下ろすと、小学校低学年くらいの子供たち5,6人が僕の周りを囲んだ。
こんな村に外国人が来ることなんてまずないだろうから、すごく興味深そうだった。
他には長老のような雰囲気のおじいちゃんが一人じっと隅に座っていた。
4.まずい殺される。
問題はここからだった。
ババはこう言い始めた。
「俺に金はくれなくていい、でも学校の教師として子供たちにペンを買ってやりたいんだ。」
僕はそこで初めてババの目に怪しい輝きを認めた。
しかし僕の今の立場を考えてみて欲しい。
町までは10km以上離れている。周囲は平原。言葉が通じる人間はいない。街灯などあるわけもなく、もうあたりは暗くなり始めている。
今ここで彼の言葉に従わなければ、僕は宿に帰ることすらできない。
渋々僕はお金を払った。
ババはそのお金を受け取ると、ではペンを買って来る、と一人でバイクに乗ってどこかへ行ってしまった。
こんなところにペンを売っている店があるわけがない。
僕は知らないインドの平原のど真ん中に取り残された。
必死で周りの子供たちに、「あいつは本当にいいやつか!」と聞いた。
Google翻訳でヒンディー語に訳しておじいちゃんに見せもした。しかし、彼は読み書きができないのか、何も言葉を発さなかった。
そのときだった。
子供のうちの一人が、僕の言いたいことを理解したらしく、大きな声で
“No!”
と言った。
そしてその瞬間、今まで一言も喋らなかったおじいちゃんがその子に対して怒鳴り始めた。
そう、彼らはおそらくグルだったのだ。
子供だけがピュアな心を持っている。
もうあたりは暗くなっている。
その時、道の先からこちらにトラックが一台向かってきた。
荷台には20から30代の男が10人ほど乗っている。
僕は立ち上がった。
まずい、殺される。
ここで襲われたら気づいてくれる人は誰もいない。
その時の僕の頭に浮かんだのは、家族への感謝でもなければ人生の後悔でもない。
ただひたすらにどうすれば生き延びられるか。
自分なら今走って平原の茂みの中に入れば、なんとかなるはずだ。
走り出すタイミングを頭をフル回転して考えていた。
心臓の鼓動は強く早く、僕の胸を叩く。
しかし僕が走って逃げ出す必要はなかった。
なぜならトラックは僕の前では止まらず、目の前を走り去っていったからだ。
全身から力が抜けた。
数分後ババは帰ってきた。
僕は言った。
もう星はいい。また明日行こう。今日は疲れたからもう帰してくれ、と。
ババはおそらく翌日も僕からお金を継続的に巻き上げるために、ここで信頼を失いたくないと思ったのだろう、何事かぐちぐち言っていたが宿まで帰してくれた。
5.人を信じられないというもどかしさ
宿に生還した僕に、どっと疲れが押し寄せてきた。
宿のスタッフが僕にどうかしたか?と声をかけてきた。
僕は全てを説明した。
彼は本当に気の毒そうにしてくれた。
元気出せよ、ほら明日じゃあ俺がチャイおごってやるよ。
僕はそれすらもう信用できなくなっていた。
翌朝、僕はカジュラホを去るための電車のキャンセル待ちをしていた。
結果はお昼過ぎにわかる。
僕の昨日の出来事を宿のスタッフは仲間に話してくれたらしく、3人のスタッフと宿に宿泊していたインド人夫婦、そして前日に街で知り合った18歳の若い青年が僕を励ましてくれた。
ババは一部の人からは要注意人物として見られていたそうだ。
だけど、彼らが僕にしてくれようとしたことについて僕は何一つ受け入れられなくなっていた。
彼らはそんな僕を理解してくれたようで、無理に何かをしようとはせずただ話し相手になってくれた。
インドで会った日本人とよくこういう話をした。
一部の人のせいで、全てのインド人を信じきれなくなるもどかしさがある、と。
もしかしたら今目の前にいるインド人は本当に良い人かもしれない。そしてそれも、騙されることと同じくらいよくあることなのである。
でも、インド人から優しさを受けた時、もう僕らは常にその裏に何かあるのではないかと疑ってしまう。
自分の安全のためにはそれが正しい。
しかし、本当にそれが純粋な優しさからくるものであったとわかった時、僕らは彼らを信じきれなかった罪悪感に苛まれることになるのだ。
果たしてキャンセル待ちは成功し、僕はババから逃げるようにカジュラホの町を去った。
これ以来僕はあのとき殺されるはずだったと思えば何にでも耐えられる気がするようになった。
あらゆる理不尽に対して、ではない。
死がいつやって来るかわからないと実感するようになった僕は、もっと自分のやりたいことをやっておかなければいけない、そしてそのためにぶつかる困難のどれよりも、あの時の状況の方が辛いだろう、と思えるようになったのだ。
あとがき
長くなりすぎたので色々カットしてしまいました。ちなみにババは僕をあっさり宿まで返してくれたわけではありませんでした。
あと、これだけ読むと随分カジュラホ悪印象な感じがしますが、実際は最後に僕を励ましてくれた人たちとそれに次々加わってきてくれた町の人のおかげで僕の最終的な印象はあまり悪くありません。
また、カジュラホの知られざるローカルな村にはとても美しい場所があります。
ま、全て話しても仕方ないしね。
次はタージマハルのある街アグラでの出来事です。
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